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主観と客観の問題 [哲学概論]

ブログのコメントに質問を頂いたので
お返事を書いておきます。

慶大生さんへ
家庭教師が儲かるか儲からないか?
というご質問ですが

これは何ともお答えができません。

それは何故か
と言いますと
儲かるか儲からないかは主観的な問題だからです。
人が一般に「儲かる」というときは
費用対効果を考えて儲かるか儲からないかを
考えているのだと思いますが
最終的に儲かったのか儲からなかったかというのは
主観的な問題、つまり本人の感じ方次第だと思います。

問題というのは
主観的な、簡単に言えば心の持ちようの問題と
客観的な、簡単に言えば自分ではどうにもならない問題
自分には無関係な問題があります。
私が慶大生さんの質問にお答えできないのは
儲かるか儲からないかという問題自体が
本当は慶大生さんの主観の問題だからです。

客観的な事実を示すことはできます。
慶大生さんが時給をいくらに設定し
週にどれくらい仕事をいれ
どれだけの時間を仕事に費やすか
これは自分でシミュレートして頂ければ
想像がつくと思います。
ここまでは客観的な問題なんです。

果してその結果を
慶大生さんが儲かると感じるのか
儲からないと感じるのか
それは慶大生さんの主観的な問題で
私にはさっぱりわかりません。

主観的問題の多くは本人の心のもちようで解決します。
また、心のもちようのせいで
生まれる主観的な問題も存在します。
例えば
普通に考えたら十分なお金持ちの人も
周りに自分よりお金持ちの人が多い場合
客観的にはお金持ちでも
主観的には貧乏だという感覚を抱くことになります。
病気の類もそうです。
私は椎間板ヘルニアでMRIの画像上
神経がかなり圧迫されているため
座りすぎたりすると左足に神経痛が走りますが
世の中には原因の分からない腰痛というの沢山あります。
NHKのテレビ放送によるものなので
数字は正確かどうかわかりませんが
腰痛の原因の80%は精神的なものだそうです。
腰痛の激痛は一度味わうと忘れなれないくらい
精神に焼き付いてしまいます。
そうするとそれ以後、今までは気にしなかったくらいの
腰の違和感すら痛みとして自分が主観的問題として
解釈してしまいます。
以前ブログで書きましたが
私の逆流性食道炎事件もそうです。
ものを飲み込んだときに、胸が詰まる感じがする
呑酸を感じる、胸やけがひどい
こんな症状が10日くらい続いて苦しくて苦しくて
仕方がなかったのですが
医者に行ったところ逆流性食道炎自体は三、四日で治る筈だから
後は精神的な問題だと言われました。
私が気にしすぎてしまうわけです。
その話を聞いたあと何とその後二日で治ってしまいました(笑)
自分自身を阿呆かと思いました(笑)
ただ、医学的な検査をしても異常のない逆流性食道炎の人は沢山いて
ネットで調べても何カ月も治らない人はざらにいます。
人によっては年単位で治りません。
そういう人たちは主観的問題として、もはや無意識のうちに
脳が逆流性食道炎を忘れることができないのだと思います。
私のように言われてパーっと忘れるのは
頭が悪いだけかもしれませんが(笑)

人間は精神が発達したことで
精神の呪縛を解くのは非常に難しいです。
最近は知識も増えてきました。
昔は医者がいうことはそのまま信じて、思いこんで
家に帰れば精神由来の症状はプラセボ効果で治っていたのですが
知識がある人は医者の言うことを疑ってしまって
十分にプラセボが効きません。
景気もそうです。
最近の人が賢くなってきたせいでなかなか景気は回復しません。
マスコミや政治家が好景気感を煽っても
今の国民は頭が良く、将来のことを良く考えるため
結果としてお金をどんどん使うことはなく
景気もそれによってよくならないのです。
現代は知恵がついた分
このような問題と沢山向き合わなければならなくなりました。
宗教が流行らなくなったのもそのせいです。

人と「比べて」何かを考えることほど
自分を不幸にすることはありません。
客観的問題をわざわざ自分の主観的問題に取りこんでいるからです。
戦後焼け野原の中では皆が何もないので
特別相対的な貧困を感じた人はほとんどいませんでした。
貧乏でも皆が貧乏だったからです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というギャグさえ
私には哲学的響きを感じさせます。
人は無意識のうちに近くの人と自分をくらべ
必要のない主観的な問題を増やしていってると思います。

やりがいのある仕事が探したい
儲かる仕事を探したい等々
これら全ては
本人がどう感じるかという主観的な問題です。
極端に言うと
食べ物がうまいか、まずいかという問題と同じなんです。
自分がある店のラーメンがうまいと思っても
それは個人的、主観的な問題で
客観的に言える問題ではないのです。
テレビで放送しているおいしいお店も同じです。
ですから主観的な問題は
私がアドバイスできる話ではないんです。

ただ、私の主観を述べることは勿論できます。
それをコメントで批判等されてもどうしようもないことは
今までの文章で分かって頂けるかと思います。
私が言えることは私自身の個人的体験として
プロ家庭教師は非常にやり甲斐もあれば
楽しくもありますし、自分が今まで感じたことの無いような
頭が割れそうな苦しみを感じることもあります。
私としては仕事というものは
儲かる儲からないという尺度で考えたことはありません。
私が儲かる儲からないという尺度で仕事を選ぶならば
もっと他の仕事をやります。
しかし、私はお金というのは目的ではないと思っています。
お金を稼いで、それを使って何かをする。
何かをする方が目的であるべきです。
お金をどう使うか、自己投資に使うか、リラックスに使うか
生活を潤すために使うか
それは人それぞれだと思いますが
お金を稼ぐこと自体は仕事の目的ではないと私は思っています。
仕事とは、これは私の勝手な定義ですが
自分の得たものを社会にoutputする営みだと思います。
ですから社会に何かしらの貢献をしなければ
私は仕事だとは思いません。
当然、お金を稼げは経済が潤うので
それも社会貢献だと言う人もいます。
でも、その人は本質的には私の定義する仕事はしていないと
私は思います。

私は「仕事」が好きです。
ですから死ぬ直前まで働いていたいです。
今の仕事、プロ家庭教師にも沢山のやり甲斐があります。
その中で一番大きいことは
生徒の人生の進路という主観的な問題を
私の主観的問題として経験させてもらえる点にあります。
喜びも苦しみも共有できます。
頑張り甲斐、自分の力の発揮のし甲斐があるんです。
その中で結果が出ると本当に嬉しいです[わーい(嬉しい顔)]
この時の為に全てはあったと思えるのです。

だらだら長く書いてしまって
慶大生さんの質問について
いいアドバイスはできなかったかもしれませんが
参考までに
カントの『純粋理性批判』「実践理性批判』『判断力批判』をお読み
頂ければ何か見つかるかもしれません。
何も見つからないかもしれません。
これも慶大生さんの主観的な問題なのですが(笑)

(オマケ)
私が個人的に日々数式をいじっています。
宇宙の始まり、成り立ちについても
私は主観的な問題だと捉えています。
ですから何かで発表しようと思う気持ちは全くありません。
このように私がなったのは
最初は諸々ここでは書けない
客観的な問題があったわけですが
それをある時から私は主観的問題として捉えることによって
自分の中で克服したのです。
宇宙の問題は極めて主観的で
宇宙がいつ、どう始まろうが大抵の人には関係のない話なんです。

第3講 プラトンのイデアと現代宇宙論~後編~ [哲学概論]

プラトンの現象界とイデア界という区分は
私たちの宇宙を非常によく表しています。

私たちの宇宙は沢山の物質に溢れているように
思うかもしれません。
しかし、実際は宇宙全ての原子等の物質を
集めても全宇宙の4.9%しかありません。
宇宙は未知の素粒子
ダークマターが26.8%
ダークエネルギーが68.3%
からなっており
私たち物質は宇宙にとって
ラーメン一杯を宇宙とすると(笑)
スープの底に残る澱のようなものなのです。
私たち物質は無くても宇宙の過去や未来に何の影響も及ぼさないのです。
実際に多元解釈では、複数の宇宙が存在していて
その宇宙の中には物質はなく
ダークマターやダークエネルギーしか存在しない宇宙というのも存在し得ます。
しかし物質だけの宇宙というのは絶対に存在しないのです。
私たち物質は宇宙に存在しなくても宇宙は何にも困らないのです。
この宇宙にとって主役はダークマターやダークエネルギーの方なのです。
プラトンの思想で言えば
私たち物質は現象界
ダークマターやダークエネルギーがイデア界ということになります。

そこで私が無神論者である理由その1です。
(順を追って何故神は存在しないかをこれからこのコーナーで
書いていこうと思います。)
私たち物質、宇宙の全ての原子はせいぜい宇宙の4.9%しかありません。
存在しなくても宇宙にとっては何も困らない存在です。
そんな物質の中に神様は存在するでしょうか?
全宇宙の5%にも満たない中に神がいる
そんな自己中心的な解釈はいくらなんでも無理があります。
更に物質がなくても宇宙は存在できます。
ということは宇宙を作った神は少なくとも
物質の中にはいないということなのです。
仮にいたとしても4.9%の私たちなど特に気にしません(笑)
ラーメンを食べにいって、麺やらスープやら具やらは評価の対象に
なりますが、丼の底に溜まっている澱を気にする人など
ほとんどいません。澱がメインには絶対になりません。
更に宇宙にとって澱のような私たち全宇宙の物質の中で
さらに地球の人類なんて澱の一粒にも満たない
存在すら気づけないくらいどうでもいい存在です。
そんな中に神やら預言者やら諸々がいるなんて
思い上がりもいいところです。
どれだけ自己中心主義なのでしょうか。
勿論、各宗教はそういうことは認めず人間中心主義です。
歴史や考古学、天文学でさえ認めません。
そうでないと全宇宙、全世界を作った神の存在が危うくなるからです。
現在でも進化論を否定している宗教もあれば、
長い間、つい最近まで地動説を認めなかった宗教もあるんです。
それくらい宗教にとって、私たちは中心でないと困るんです。
これらのお話、宗教の歴史的経緯
特に世界三代宗教については
この哲学概論で書いていきたいと思います。

私は宗教自体を否定している訳ではありません。
これは誤解しないで頂きたいです。
宗教を心の支えにしておられる方が何十億とおられます。
その方にとって宗教は大切なもので
神という架空の存在を人生の中に置き
常に神の目によって監視されていると考えるのは
弱い人間が正しく生きていく
一つの道徳的テクニックとして非常に有効だと思います。
一方で宗教には戦争、争いを生んできたという負の側面もあります。
存在しない神のために存在する私たちが
死ぬのは明らかに馬鹿げています。
宗教とは節度を持って付き合った方がいいです。

何はともあれ
文化としての宗教、心のよりどころとしての宗教は
意味のあるものだと思います。
しかし…神が実在するかと言えばそれはNoだと思います。
もしいるとすればダークマターやダークエネルギー側、イデア界に
存在すると考えるのが圧倒的に妥当です。
昔は宇宙や世界のことがよくわからなかった
だから人間が中心、地球が中心のような気がしていた
だから人間の中で神の名を騙るものがでてきた。
それは歴史的必然だとも言える仕方がないことです。
しかし、私たちの宇宙の認識は時代と共に大きく進歩し
主役だと思っていた私たち物質は
ほとんどなくてもいいものだということがわかりました。
教義を変えるというのは難しいのかもしれませんが
あるところで事実は事実と認めないと
宗教が持つ本来の価値が逆に損なわれてしまうのではないかと
私は危惧しています。

私たち物質の世界は現象界でしかないのです。
ソクラテスの思想に端を発した
プラトンのイデアというのは
おとぎ話のように聞こえる面もあるかもしれませんが
一方で非常に現代的な宇宙論も内包し得る哲学なんです。

プラトンからアリストテレスへ
またギリシア哲学は大きな発展を遂げることになります。
そしてこのギリシア哲学は
西洋思想、西洋宗教の根幹を成すものへと昇華していくのです。

それではまた
第4講アリストテレスのお話で会いましょう[手(パー)]

第3講 プラトンのイデアと現代宇宙論~前編~ [哲学概論]

ソクラテスが亡くなり
アテネ市民を善き魂(プシュケー)に導くという
意思を継いだのがプラトンでした。

プラトンと言えばイデア
イデアって結局何ですか?という質問を
今までどれだけ受けてきたかわかりません。
その都度説明して参りましたが
これからはこのブログの記事をみてください
といえば楽なので一石二鳥です(笑)

プラトンはこの世界は
現実の世界とは別に理想の世界があると考えました。
現実の世界を現象界
理想の世界をイデア界と言います。
まずこの対比をしっかりと理解してください。

現象界というのは、今ある現実の世界ではあるが
絶えず変化する仮の世界で、感覚によって捉えられるもの

イデア界というのは理想の世界であり
永遠不変で完全無欠な真の実在で、理性(ロゴス)によってのみ
捉えられるもの

です。

有名な洞窟の比喩がこのイデアを上手く表しています。
つまり私たちは感覚で理解できるのは
イデアの影である現実だけだということです。

現象界に生きる我々は感覚によって捉えたものを
適当に真実だと思っているが
実はそれは思い違いで
真実、つまりイデアは理性によってしか到達できない、
だから理性を磨きなさい、というのがプラトンの思想です。
プラトンは自分の思想を伝えるため
理性を磨くために
アカデメイアという学校まで作りました。
そして、その学校の生徒に次回の主役
アリストテレスがいました。

プラトンは肉体と魂(プシュケー)を分けて考えました。
肉体の牢獄という思想です。
魂は元々イデア界にいたのですが、肉体を得たことで
現象界に囚われの身になってしまった。
しかし、魂も淡い記憶でイデアのことは覚えていて
常にそれに恋焦がれているんです。
その精神的欲求をエロースと言います。
プラトンはこの魂を善のイデアに向けて肉体から解き放て
と言っているんです。
このことでソクラテスの理想、善き魂(プシュケー)が叶うと考えました。

それでは魂をイデアに解き放つにはどうすればいいか?
プラトンは
現象界で魂は感覚を経験する度にイデアを想起するのだと言いました。
そして魂の働きを三つにわけて考えました。(魂の三分説)
それは、理性、意思、欲望です。
理性はイデア界に属して「知恵」の徳(アレテー)を司ります。
意思はイデア界と現象界の橋渡しをして「勇気」の徳を司ります。
欲望は身体に属して「節制」の徳を司ります。

この三つの理性、意思、欲望が調和して十全に働くとき
理性が意思と欲望を統御してそれぞれが十分な働きをしたときに
ソクラテスが重視した「正義」が実現するとプラトンは考えました。
この理性、意思、欲望、正義を四元徳と言います。

このようにしてプラトンはソクラテスが目指していた
「善き魂」と「正義」を実現しようとしていたのです。

しかし、プラトンにはソクラテスとは違う思想もありました。
それはソクラテスがアテネ市民の裁判によって殺されてしまった
ということをプラトンは非常に残念に思っていて
これが民主主義の限界だと思ったからです。

プラトンは人には役割があるのだということを言いました。
欲望の強い人は生産者になり
意思の強い人は軍人になり
そして理性をもった哲学者こそが統治者になるべきだと言ったのです。
理性をもった哲学者こそが
知恵の徳をもって生産者や軍人を統治していくことで
真の正義が達成できると考えました。

政治家志望だったプラトンらしい考え方です。
人には向き、不向きがあって
なんでも平等にやるとソクラテスのような大賢人でさえ
死刑になってしまうところが民主主義の怖いところだと
プラントは指摘したのです。
ここはソクラテスとは考えが違う部分です。

それでは次回は
プラトンの思想を現代宇宙論風にアレンジして
神の実在の話にまで到達したいと思います。

→後編に続く


第2講 ソクラテスの思想~後編~ [哲学概論]

ソクラテスの項の最後に
ソクラテスが考えた問題に関して
私が現在感じている問題点と解決策を
書いてみたいと思います。
多分、長くなります(笑)

①時間軸の欠如
直接間接の違いはあれども
ギリシア時代のアテネと同じく
現代の日本も民主主義です。
民主主義というのは究極的には
選挙権を多く持っている人々の機嫌を伺いながらやる政治です。
仮に今、日本に必要で正しいことは大増税だとしても
それを自分の信念に基づいてできる政治家というのはいません。
なぜなら必ず次の選挙で自分の政党は大敗し
そうすれば多くの同士が職を失うからです。
国民も自分たちに「おいしい」党にしか投票はしません。
将来のために今増税が必要でも
将来のことより今の自分の生活
今の自分の損得しか考えないのです。
このままいくと50年後の日本はどうなるか?
50年後の日本の為にここは自分たちが少しでも
我慢しようなどという気は毛頭ないのが大多数の国民なのです。
ですから増税後には必ず選挙に負ける、その繰り返しをしてきました。
その度に本当に必要な政策を打てず
現在のような借金が1000兆を超える事態となったのです。

このようなことが続くと民主主義によって
どんどん政治は正しい方向からかけ離れ、
自分の世代だけよければそれでいい。
未来のことは未来の人が決めてくれ、というような国家になってしまいます。
この前もニートの方がテレビで言っていました。
別に働かなくても生きていける世の中だし
働かない人が増えることで国が潰れるなら潰れればいいし
そういう国になるのも結局は自分たちが選択した結果なので仕方ない、と。

このような考え方は全て時間軸が欠如しています。
三次元空間の中でしか(私は空間を三次元だと思っていませんが(笑))
ものごとを考えていないのです。
私たちが現在豊かな暮らしができるのは何故か?
ニートのような生活が成立するのは何故か?
それは勿論偶然という側面もありますが
基本的には先人の人々が今の日本を築き上げてくれたからなのです。
ですから私たちも同じことをしなければなりません。
今の自分達だげがいいだけではなくて
顔も見えない50年後100年後の日本人のために
やらなければならないこともあるのです。
物事を考える際に必ず時間軸というのを
取り入れなければならないと私は思います。

国民の時間軸の欠如を解決するためには
政治的に優秀な独裁者でも現れて
100年先の日本まで続く政策を
断行してもらうしかないのですが
それは現行制度では非現実的過ぎます。
そこで私たちは民主主義の制度のもとで何をすればいいか?

それはソクラテスがアテネ市民にしたように
国民の教育水準を上げるということなのです。
国民一人一人が目先の利益、損得だけでなく将来の日本のことを考えて
正しい選択をできるようになる
しっかりと自分で考えることのできる、善く生きることのできる
国民となるように教育することなのです。
教育と言うのは民主主義国家の根幹です。
これは多数決の原理を考えてもわかります。

②多数決の原理
私は小学生の頃から多数決は必ずしも公平ではなく
一人で考えるよりも多数決で出す結論が
必ずしも優れている訳ではないということを
数学的な原理から主張してきました。
よく喧嘩になりました(笑)
ただ、これも皆が数学の勉強を進めていってくれれば
いつかわかるだろうと思っていました。
しかし、大人になった現在でも
最後は多数決、多数決で決めればそれでOKだ
みたいなことをおっしゃる政治家の方、一般の方がおられます。
これは多分ゴリゴリの文系の方なのだと思います。
おそらく確率的に多数決の原理を考えたことがある人は
多数決が公平で多数決でやれば必ず一人で考えるより
いい結果がでる、などということを考えることはありません。
なぜなら数学的な原理としてそれは間違っているからです。
ソクラテスがいうようにそれを「知らない」ということが大問題なのです。
「三人よれば文殊の知恵」というのは「限定的に」正しいのです。
その限定条件は何か?
このブログでは数式が書けないのと
詳しい数学的議論を書いていると長くなりすぎてしまいますので省略しますが
多数決が正しい判断をする効果が生まれるのは
人があることを正しく判断する確率が1/2を超えた時だけなんです。
個人個人の判断確率が1/2を超えない場合は返って多数決は逆効果になるんです。
ですから国民の判断能力に問題がある国は
民主主義、多数決はうまくいきません。
独裁国家の方がうまくいきます。
それは歴史を見ても今をみても明らかです。
民主主義が正しく機能するためには教育をしっかりとして
国民の判断確率を1/2より高くしなければならないのです。
私たち日本国民有権者の判断確率の平均値は1/2を超えているでしょうか?
私は超えていないと思います。
ですから以前の記事で選挙権の共産化は問題であるということを書きました。
選挙権を20歳以上に無条件にばらまくのは公平ではありません。
政治について必死に勉強して将来の為を考えて投票する人と
何となく嫌々、もしくは雰囲気で適当に好きな人
話題のある人にいれてしまえ!と思って投票する人が
共に一票で、同価値ということに対して私は不公平だと思うんです。
それを公平にするには
選挙権を資格制、免許制にして
五年に一回くらい基本的な政治経済の試験を実施して
それに合格した人だけが
選挙権を得られるシステムにした方がいいと思います。
そうすれば有権者の判断確率を1/2以上にすることは
選挙権の免許試験の難易度によってコントロールできるからです。
よく選挙権を棄権することを批判する人がいますが
その方も多数決の原理はわかっておられません。
政治がよくわからない、わかりたくもない、興味がない
という人は棄権をするというのが
国民の判断確率の平均値を下げない
民主主義における最適解なのです。
だから棄権も時には大切なんです。
政治に興味がないから、最近政治の勉強してないから
選挙に行かないというのは
立派な判断だと私は思います。

だた、現実問題として
私のような限定選挙を主張するような人は世の中にあまりいません。
大ぴらにこんな発言をすれば曲解されて「差別主義者」だなどと言われます。
今の普通選挙の民主主義の中で
私たち、私にできる最善のことというのは
国民一人一人の教育水準を上げるということだけなのです。

③ソクラテスに言いたいこと
ソクラテスは自分の信念を曲げずに死にました。
その生き方は確かに恰好いいです。
しかし、もし理系の私がその時代に生きていたら
きっと次のようにソクラテスに言うと思います。

ソクラテスさんちょっと待ってください。
アテネ市民の判断確率は1/2を超えていません。
ですから「悪法も法なり」というのは精神論としては素敵ですが
数学的に間違えています。
ですからここから一旦逃げて、もっと啓蒙活動、教育活動をしましょう

ソクラテスが裁判でアテネ市民の堕落を糾弾したということは
ソクラテスがアテネ市民の判断確率を1/2より小さいと
思っていたということに他なりません。
そのような状況で下したアテネ市民の判断は間違えている
可能性が高いんです。

④私がやっていくこと、やらなければならないこと
私は50年後100年後の日本人に
21世紀初頭の日本人は無知で目先の利益にばかり
捕らわれて何もしてこなかったから
今みたいなひどい日本になったのだ
などと言われたくありません。
未来の日本人が誇れる善き生き方をしたいんです。
そのために教育の果たす役割は非常に大きいです。
国民の思考力を上げなければなりません。
論理的に考えることができ、現実を直視すれば
今本当に必要なことは何かということがわかる筈なんです。
そういうしっかりと考えられる国民を一人でも増やすというのは
私のこれからの目標であり願いです。

最後にソクラテスについていくつか面白いエピソードを。
ソクラテスは頭のいい人にありがちなよく皮肉を言う人なんです。
その中で有名な話をあげておきます。

ソクラテスの奥さんは非常に恐ろしいことで知られています。
悪妻の代表のように言われています。
確かに気性は荒かったと思います。
しかし、恐ろしいと言ってもある意味常識的でもあります。
ソクラテスは仕事をせず
弟子たちと真理の探究ばかりをしていました。
当然生活は困窮するわけです。
ソクラテスの奥さんはお金にならない哲学などしていないで
しっかり働いて欲しいと思っていたのでしょう。
ソクラテスが家の外で弟子たちと議論をしていると
突然、奥さんは激昂して
ソクラテスに甕で頭から水をぶっかけたそうです。
そういうことをされてもソクラテスは特に感情を乱すこともなく
議論を続けたそうです。
そんなあまりにも奥さんの尻にしかれているソクラテスに
弟子たちは、結婚というのはこんなにつらいものなのでしょうか?
結婚はしない方が幸福なのでしょうか?と問いました。
そうするとソクラテスは「結婚はした方がいい。」と答えました。
何故なのか弟子が聞くと
「結婚をして損はない。良妻を得れば幸福になれるし、
悪妻を得れば哲学者になれるからだ。」と自嘲しました。
その他にも奥さんに水をかけられた直後に
「雷の後に雨はつきものだ。」と言って笑ったり
「蝉が羨ましい。静かな妻がいて」などと言ったりしました。

ソクラテスの名言について興味のある人は
「ソクラテス名言」で検索して頂ければと思います。

私たちは常に学ばねばなりません。
無知を知り、日々勉強
これに尽きます。
勿論ここでいう勉強は紙に書いてやるものだけでは
ありません。
非常に広い意味での勉強です。
私も生徒に勉強を教えていますが
その中で逆に教わることも沢山あります。

長い長いこのブログの記事の
最後はソクラテスの名言で終わりたいと思います。

「勉学は光であり、無学は闇である。」

第2講 ソクラテスの思想~中編~ [哲学概論]

ソクラテスが無知の知を出発点に
問答法でソフィストを論破し
産婆術でアテネ市民を真の知恵へと
導きました。
相対的真理ではなく絶対的真理を求めて。

それでは
ソクラテスが絶対的真理としたのは何でしょうか?
それは「徳」(アレテー)です。
「徳」こそがアテネ市民を善き魂(プシュケー)に導く
真の知恵だと考えたのです。
「徳」というのは
ものに備わるよさや能力のことです。
鳥には空を飛ぶという徳(アレテー)が
はさみには切れるという徳が備わっているとうことです。
(ギリシア時代にはさみはありませんが(笑))

それでは人間の徳
即ち人間に備わるよさや能力は何か?
それをソクラテスは色々な思考の末
正義、知恵、節制…と考えたのです。
その中で特にソクラテスは「正義」を重視したのです。
ここからギリシア哲学で最も重要な正義論が始まり
そしてそれは現代でも「正義」とは何か?という
形で問われています。

ソクラテスは人は「徳」を正しく知れば、善き生き方に
導かれるという「知徳合一」ということを主張しました。
「知る」ということを非常に重要視したのです。
人が悪いことをしてしまうのは知らないからだというのです。
現代でもアイスボックスに入って写真を撮って投稿するという
無知なことをした人がいますが、その人はふざけ半分で投稿して
目立ちたいと思ってやっているのでしょうが
それによってどれだけ重い様々な罪と賠償を背負わされ
様々な人に迷惑をかけてしまうかということを知らないわけです。
飲酒運転で人をひいてしまう人もそうです。
殺人事件を起こしてみて初めて自分が負わなければならないもの
一生をたった一時のお酒という享楽のためにぶち壊してしまったこと
に気がつくのです。本当にその重さを深く認識していたら
絶対に飲酒して運転はしません。
もしそのような事実を知っていてやるような人がいたら
損得感覚、リスク感覚がおかしすぎて
それはそれで他の精神的な病院に入る必要があります。
これも事件を起こしてからでは手遅れなのですが。

知っていたら悪いことはしない、
そう考えてソクラテスは
「徳は知なり」という言葉を残しました。
その上で徳に基づいて善く生きることこそが
人間の真の幸福だと考え、これを「福徳一致」と言います。
名誉でもお金でもなく徳を知り善く生きることが幸せなのだと
アテネ市民にソクラテスは説いたのです。

このような活動をしていると当然恨みを勝ったり
時の権力者から目を付けられたりしてしまいます。
そうしてソクラテスは神々を信じず、青少年を惑わせた
という理由で裁判にかけられました。
アテネの市民裁判で二回に渡り審議されましたが
ソクラテスは反省するどころか裁判でアテネ市民の道徳的堕落を批判しました。
そしてソクラテスは死刑を言い渡されるのです。
ただ、プラトンを代表とするソクラテスの弟子たちは
全く心配していませんでした。
というのも当時は牢番にちょっと賄賂を渡せば
逃げて死刑は免れたのです。
しかも実際、牢番の人はソクラテスに同情的で
いつでも逃げられるように牢に鍵はかかっていなかったのです。
弟子たちは国外逃亡の手はずを整え、
援助してくれる人まで見つけました。

ところが…です
ソクラテスは「悪法も法なり」と言ってそれを拒否したのです。
ソクラテスは弟子たちを集めて獄中で説きました。
自分はアテネの民主主義を誇りに思うし
アテネ市民に誇りを持って善く生きるように説いてきた。
そのアテネ市民が決めた法、下した判決ならば
どんなに自分にとって不都合でも不合理(悪法)でも
それを甘んじて受けなければならない。
それが自分が今まで主張してきたことであり
自分は最後までアテネ市民として正義に基いた善き生き方を貫くのだと。

そう言ってソクラテスは当時の死刑、毒杯を呷って自らの命を絶ったのです。
このソクラテスの生き方に感銘を受けたプラトンは
政治家になることを志していましたが
自分も哲学者になることを決めるのです。

かくしてソクラテスの考えは弟子のプラトンに引き継がれます。
そしてプラトンの考えはアカデメイアというプラトンが建てた学校の
生徒だったアリストテレスによって更なる発展をみるのです。

(注)私が書きづらいので「弟子」という言葉を使ってきましたが
ソクラテス自体は子弟という上下関係を嫌っており
皆が真理を求める同士という立場で考えていたそうです。

→後編に続く

第2講 ソクラテスの思想~前編~ [哲学概論]

前回までの話の続きですが
ソクラテスはソフィストに幻惑されていた
アテネ市民を善き魂(プシュケー)に導くこと
ソクラテスの言葉を借りれば
「ただ生きるということではなく、善く生きること。」
という生き方に導くことを目指していました。

そこでその為にはソフィストのような相対主義ではなく
善とは何か?正義とは何か?という絶対的真理を目指して
思索の道にわけいっていたのです。
正にこの瞬間、哲学が始まったともいえるでしょう。

数年前にブームになったハーバード白熱教室の
マイケル・サンデル教授の「正義」論にも
当然のごとくソクラテスは取り上げられていますので
興味のある方はそちらも読んで頂ければと思います。
また、マイケル・サンデル教授の授業方法も極めて強く
ソクラテスの産婆術という手法の影響を受けています。
ソクラテスはまず問答法でソフィストの無知を暴き、
アテネ市民に無知の知の重要性を理解させ
(我々は何もしらない、だから誰しもが学んでいかなければ
いけないのだということです。)
自分で結論を言うのではなく皆で議論をして共に真の知恵に
近づいていく、その世話をしているだけ(産婆術)というスタイルを貫きました。
マイケル・サンデル教授の授業も同じです。
彼の結論、見解というのは授業で一切出てきません。
学生同士議論をさせ、その中でより深い真理
の発見を手助けしていくのです。
そうすると学生は今まで自分が
考えたこともなかった深い思考に至ることができるのです。
この方法が日本人には目新しく映ったので人気がでたのだと思いますが、
実はソクラテスが始めた方法なのです。
何かのインタビューでサンデル教授も仰っていました。

ここでは簡単にソクラテスの考えたことについて
書いていきたいと思います。
ソクラテスの思索の出発点にあたるのは
「無知の知」です。自分は何もしらないと自覚することです。
何も知らないと自覚しなければ絶対的真理など探求すら
できないということです。

これは私も非常に大きく影響を受けた点です。
ちょっと物理ができてもちょっと数学ができても
模試で一番を取ろうが、天才と呼ばれようが
先人の偉人に比べればゴミみたいなものです。
科学がどんなに進んだ現代でも
自然の、目に見えないくらいのほんの小さな一部がわかっただけです。
そもそも自然を科学で解析しようなどということ自体が
おこがましいことなのです。自然はわからないことだらけなんです。
知ったかぶりは御法度です。
私たちは常にこういった謙虚な気持ちで学問、真理に向かい
あわなければなりません。
そうソクラテスは私に教えてくれました。

ソクラテスが「無知の知」を理解するに至ったきっかけには
有名な二つの言葉、エピソードがあります。
ここでは長くなるのでエピソードは書きませんが
デルフォイの神託の言葉
「ソクラテス以上の智者はいない」
とアポロンの神殿の柱に刻まれていた言葉
「汝自身を知れ」
とからソクラテスは「無知の知」こそが
真の知恵を探求する出発点だと考えたのです。

→中編に続く

第1講 ソクラテスの登場~後編~ [哲学概論]

ギリシアはこの頃
ポリスという多数の都市国家がひしめきあっていました。
その中の中心都市アテネでは直接民主制による
民主政治が発達していました。
直接民主制ではいかに相手を説得して同意を得るか
議論で相手を打ち負かすか
というのが大事になってきます。

そんな中、相手の政治家を議論で打ち負かすために
知識や弁論術を駆使して金銭の報酬を得るソフィストと呼ばれる
専門家が現れ、それを雇う政治家が増えてきました。
(アテネは自治国家なので
本当は政治家という表現は適切ではありません。
デーマゴーゴスと言います。)
需要が増えれば供給も増えるということで
アテネの街には議論で相手を完膚無きまでに叩きのめす
ソフィストが増え、中には悪質に市民を騙し金銭を得るものまで
現れたんです。

ここで…
少し話は逸れますが
何故ソフィストはそんなに議論に勝てるのでしょうか?
これには種があります。
それは徹底的な相対主義です。
自然哲学者は自然を対象にして万物の始源(アルケー)という普遍的な
真理を追究したのに対して、ソフィストは人間の作りだしたもの(ノモス)
簡単に言えば法律や制度を対象にしていて
人間なんて色々だから考え方も色々あり、ポリスによって法律や制度が
違ってもいいし、自然哲学者のいう絶対的な真理なんてあるはずがない
と主張したのです。有名なソフィストにプロタゴラスがいますが
彼が言った「人間は万物の尺度である」ということにソフィストの考え、
相対主義が集約されています。

相対主義が議論に勝つというのは当たり前なのです。
まず自分の主張はしません。真実は見方によって色々ですから。
ただ相手の主張を聞いてその考え方を相対主義で
批判するのです。
物事には多面性があるので何でも見かたを
変えれば色々批判ができるわけで
そればかりをするのがソフィストなんです。
現代の政治家でもそういう人はいます(笑)

思春期の青年もそうですね。
例えば刺青を入れたいと子供が言ってきたとします。
大抵の親は反対します。
それは日本の文化の中では社会人として
色々と問題が起きるからです。
子供が生きていくのに不自由するかもしれないと思うからです。
でも子供にはそれはわかりません。
そういうときに、何処かの国では当たり前だとか
どうして刺青は良くないのか、刺青が悪いという価値観の根拠はなんだとか
わけのわからない反論をするのです。思春期までは。
反論だけなら誰でもできるのです。
全ては相対的ですから何でも理由は言えます。
しかし、逆に本人が刺青を入れる正当性、正当な理由というのは一切
言わないですし、言えないのです。
仮にそれを主張すれば
それには同じような反論が無数にできてしまうからです。
まあ誰もがそういう時期を経て大人になるのです。
大人になりきれない大人も沢山いますが
大抵の人は相対主義に何の意味の無いことにある時、気がつきます。

話を元に戻します。
そうした空理空論を並べ、人を騙して金銭を得るソフィストがアテネの
に蔓延するようになるのです。そしてまたそういうソフィストに影響を受けた
政治家は無駄に民を煽るようになりアテネの誇る
直接民主制は完全な衆愚政治と没落していったのです。
国民の人気ばかり気にして、本来嫌でもやらなければならない政策をやれない
という現代民主主義と同じようなものです。

このようなアテネの危機に現れたのがソクラテスなのです[ぴかぴか(新しい)]

ソフィストに扇動されているアテネ市民は
名誉や金ばかりを追いかける完全な個人主義に陥ってしまっていました。
ソクラテスはそんな現状を悲しみ
金や名誉ではなく
アテネ市民として誇り高い善き生き方をしてほしいと願い、立ちあがるのです。

ソクラテスはまずソフィストから洗脳されているアテネ市民を解放するためには
ソフィストが使う相対主義に対して
どんな反論にも負けない絶対的な真理を見つける必要があると考えました。
そして、自分の主張はしないソフィストに対しては
問答法という相手の論理的な欠点をつく問を繰り返す方法で
議論によって、公衆の面前でソフィストの無知を暴いていくということを始めました。
全てはアテネ市民が誇り高きアテネ市民となるために。
しかしそれによってやがてソクラテスは恨みを買い、アテネの市民裁判によって
死刑を言い渡されてしまいます。
ソクラテスの自らの信念を全うした生き方に感化された
プラトンは自分も哲学者になることを決め
ソクラテスの考えを広めていくことに尽力しました。

この辺の詳しいお話、
またソクラテスがたどり着いた絶対的な真理とは何か
について次回は書いていきたい思います。

第1講 ソクラテスの登場~前編~ [哲学概論]

ソクラテスのことを書けという要望で始まったコーナーなので
ソクラテスから始めないわけにはいきません。
しかし、その前にソクラテスが現れる前のギリシアの流れを
書いておかないと分かりづらいので
まずは紀元前6~4世紀に生まれた自然哲学者から書いていきたいと
思います。

今回の話の大まかな流れを書きますと
神話(ミュトス)の時代→自然哲学者の登場→ソフィストの登場
→ソクラテス
です。この流れを分かって頂ければ今回の講義はOKです。

紀元前6世紀以前は皆さんも何かで聞いたことはあるであろう
古代ギリシア神話に基づいた神話的世界観でした。
ゼウスを主神としてオリンポスの神々、つまり
オリンポス12神がこの世を支配していると考えていました。
かの有名なパルテノン神殿の柱にはこの12神が刻まれているそうです。
この神々の世界を描いた有名な詩人がホメロスとヘシオドスです。
特にホメロスが「イリアス」の中で描いた「トロイの木馬」の話は有名だと思います。
色々とギリシア神話の逸話を読んでいただければわかるように
ざっくり言うとギリシア神話の言いたいことは
「どんな英雄であっても神々、神々が定めた運命には逆らえないのだ。」
ということです。
このギリシア神話は口承でおよそ紀元前15世紀に始まってから
長く信じられてきたのですが
紀元前6世紀ころになって、そんなあるかどうかもわからない神話、作り話
なんて信じてられるかという人が出来てきました。
それがギリシアの植民地だったミレトスの人々です。
エーゲ海をのぞむ、貿易が盛んだったミレトスでは
おそらく商業で培われた合理的な思考が発達していたのでしょう
「万物の始まりはなにか、根源は何なのか」という万物の始源(アルケー)を
考え始めたのです。
神話をただ鵜呑みにするのではなく、人間の持つ理性(ロゴス)で世界の始まりを
考えようとしたのです。
これが自然哲学者の登場です。

自然哲学者には有名な人がたくさんいます。
タレス、ピタゴラス、デモクリトス、ヘラクレイトス、アナクシマンドロス、パルメニデス

それぞれ万物の始源は何か?つまりこの世界は何でできているか?
という問題に取り組みました。そしてタレスは「水」から(多分エーゲ海の影響
でしょう。)ヘラクレイトスは「火」から万物はできていると考えました。
全ての人について詳しく書くわけにもいかないので
ここでは独断と偏見で科学に関係がある
ピタゴラスとデモクリトスについて書いておきます。

ピタゴラスは皆さんが大体中三か中二で習う
直角三角形の「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」で有名です。
余弦定理を習うまでは、また習った後も大変お世話になる
定理です。私も一日に10回は授業で使うのではないでしょうか。
そんなピタゴラスですが、彼は宇宙は数的な秩序つまり比例関係で
成り立っていると考えていました。万物の始源は「数」だというわけです。
ピタゴラスはプシュケー(魂)の不死と輪廻を信じており
数学的な秩序を学ぶことで魂は浄化(カタルシス)されるという
思想を持っていました。
現在の数学オタクも私もいくら数学が好きだからと言って
流石にそんなことまでは思いません(笑)
そして、ピタゴラスは自分で数学を研究する教団を作ります。
俗に言うピタゴラス教団です。
数学の研究をする宗教団体なのですが
そこで見つけた定理等は他言してはいけないなどの厳しい規則があった
ようです。実はピタゴラスの定理、つまり三平方の定理は
ピタゴラスによって発見されたものではなく
この教団の誰かが発見、もしくは持ちこんだものだと言われています。
ピタゴラスは哲学者なので数学的素養はそれほどなかったとも言われています。

もう一人のデモクリトスですが、彼は高校の化学の教科書にもでてきます。
デモクリトスは、西洋近代思想の根幹を成す
唯物論(これについては機会を改めて書きます。)の先駆けと言われています。
デモクリトスは
様々な自然哲学者、つまり万物の始源は何なのかを考える人たちが
各々、それは火だとか水だとか数だとか言っているのですが
仮にどれであったとしても、始源となるものが決まっているのに
何故それからできる世の中のもので同じものが存在しないのか
という自然哲学が構造的に持つ弱点、難問に対して一つの答えをだします。
それは空虚(ケノン)である宇宙空間を原子(アトム)が動き回り、結合、分離すること
で万物が生成されるということです。
彼が世に現れたのが自然哲学末期
紀元前400年前後であることを考えると恐ろしい先見の明です。

そして時を同じくして紀元前500年くらいから
万物の始源を求める自然哲学の考えを否定して
始源などという絶対的、普遍的な真理などは
ぞもそも存在しないんだという
ソフィストと呼ばれる人々が現れるのです。

→後編に続く
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